塁間を駆け抜けた男 【6】

人との出会いで得た野球人としての誇り

 昨年の12月中旬、福本豊の野球殿堂入りを祝うパーティーが大阪市内のホテルで盛大に催された。野球関係者はじめ政財界、現役時代から力を入れている福祉事業関係者ら約600人が見守るなか、母校の大鉄高(現阪南大高)OBたちに担がれ、会場に現れた主役は、少し照れた。しかし、その顔は野球人としての誇りで輝いていた。
 「わたしがロッテの監督時代には、あの足にはどれだけ苦労させられたことか。この記録(通算1065盗塁)はもう破られることはないでしょう」。あいさつに立った名球会代表幹事、金田正一のスピーチに大きな拍手があがった。
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 1968年(昭和43年)11月のドラフト会議で阪急ブレーブスが社会人、松下電器の福本を7位で指名。1位は山田久志、2位は加藤秀司だった。この3選手が中心となって75年から3年連続日本一を達成するなど、ブレーブス黄金時代を築いたことから「ドラフト史上最高のヒット指名」とまでいわれた。
 しかし、福本はまったくの無名選手。「指名された時は冗談やと思ったけど、ものはためしや」。3年たっても通用しなければ、中華料理店を営む父親豊次の家業を継げばいい_という軽い気持ちでプロの世界に飛び込んだ。
 同じ年に東京、メキシコオリンピックのとき、日本陸上界の短距離エースだった飯島秀雄が、その俊足を買われて野球経験がまったくないにもかかわらず、ロッテオリオンズに鳴り物入りで入団。結果は惨めだったが、当時のプロ野球界は「打」に「走」をからめた機動力野球を重視しはじめていた。そんな時代の流れがプロ入りの追い風になったのも事実だが、人との出会いがなければ超一流選手になれていなかった。
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 プロ入り当初、南海ホークスのコーチだったドン・ブレーザーから「大リーグにも、きみのような体が小さくて足の速い選手はいる。彼らは常に内野安打を狙っている」というアドバイスを受けたこともあって打撃練習では、ひたすらゴロを打ち続けた。その姿をみた指揮官、西本幸雄が「球に当てるだけの楽な打ち方が体に染みついたら、打者として長続きせんぞ」と激怒した。
 その日から西本の厳しい指導のもと、人一倍の素振りと筋力トレーニングでパワーアップした福本は「ツチノコ」と呼ばれた1150グラムの超重量バットを自在に操り、ヒットを量産。西本のひと言がなければ、通算2543安打はもちろんのこと、「世界の盗塁王」の勲章も手にしていなかっただろう。
 「走の師匠」となったのは浅井浄トレーニングコーチだ。ただしゃにむに塁に向かって走る福本に、かつて五輪代表だった浅井は本格的な陸上短距離の走り方を教え込んだ。前傾姿勢を保ったままスタートをきり、スピードを緩めず猛烈な勢いでスライディングができるようになったのも、浅井の徹底したマンツーマン指導があったからだ。
 西本が退いたあとの阪急ブレーブスを率い、さらに野球人・福本に磨きをかけた上田利治は「クセ盗みの名人とかいわれるけど、これほど相手に警戒されながら盗塁を決める選手はもう現れんやろね」と『不世出の韋駄天男』を絶賛した。
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 殿堂入りパーティーに駆けつけた西本、上田ら恩師たちに何度も頭を下げた福本は父親豊次、母親ふみ枝に花束を贈り、「きょうは最高の親孝行ができました」と声を震わせた。 
 「ぼくの後に近鉄の大ちゃん(大石大二郎)がいたように、これからも走る野球のおもしろさをだれかに引き継いでもらいたい。その素質がある阪神の赤星には失敗を恐れず、どんどん走ってもらいたいね」。20年間にわたって塁間を駆け抜けた男は、自ら切り開いた道を、これからのプロ野球界を背負う次代の個性派たちに託した。

=おわり

(03.3.11) 産経新聞SPORTS EXPRESS/ あの瞬間  西井禎一