塁間を駆け抜けた男 【1】
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104盗塁達成の喜びより 非礼わびる気持ち強く

 「人気のセ、実力のパ」。少なくとも昭和50年代の初めごろまでは、そういわれていた。その後、FA制度の導入を機にパ・リーグからセ・リーグへ相次いで戦力が流出。セ球団のユニフォームを選んだ選手は、決まって「注目されるなかでプレーをしたかった」というせりふを口にする。
 リーグ関係者が危機感を抱くのも当然だが、かつてのパの選手たちはセの人気球団に対する反骨心をエネルギーにしていた。年に一度、自分たちの実力を世間にアピールできる球宴の舞台で、しゃかりきになってセ軍団に立ち向かっていった野武士パワーが、プロ野球界のレベルアップの原動力となったことを野球ファンは知っている。
 そのパ・リーグだけでなく、日本を代表する名捕手、野村克也を「この男が出現したおかげで、バッテリー間に革命が起こった」とうならせた選手がいる。山田久志、加藤英司らとともに、阪急ブレーブスの黄金時代を築いた福本豊だ。自慢の俊足、投手のクセを見抜く天性の素質で日米の盗塁記録を次々と塗り替え、塁間27.43mで走者とバッテリーが繰り広げるスリリングな‘戦い’の新たな地平を開いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  球界の先輩、同世代の人からは親しみを込めて「福ちゃん」と呼ばれ、年下の後輩からは「福さん」と慕われている。大阪生まれの生粋の浪速っ子。現役時代はもちろんのこと、評論家になったいまでもテレビ、ラジオの解説ではかたくなに大阪弁を貫いている。「その方が相手に気持ちがストレートに伝わるやろ」。自分を飾ることを極端に嫌がる福本は、ひとなつっこい笑顔でこう話す。
 しかし、昭和47年のシーズン中盤、ポツリとつぶやいた大阪弁には悲壮感すら漂っていた。
 「きょうは決めんとあかんな」
 その年の福本は開幕から疾風迅雷のごとく、塁間を駆けめぐった。気がつけば、モーリー・ウィルス(元ドジャース)の持つ米大リーグ記録のシーズン104盗塁に「あと1」と迫っていた。ところが、日増しにエスカレートする周囲の狂想曲に翻弄されるように、大記録を前に足踏み。プレッシャーが足の回転のスピードを奪い、スタートを切るタイミングまで狂わせた。
 記録に王手をかけた3日後の9月22日、本拠地・西宮球場での近鉄戦。この日も大記録達成の瞬間を見届けようとするファンの熱気がスタンドの秋風を吹き飛ばした。球団の発表は9000人。当時、どの球場も閑古鳥が鳴いていたパ・リーグの試合では大入りに近い観衆の前で一回、いきなりチャンスが訪れた。
 第1打席、粘って四球。スタンドのざわめきに動揺したのか、マウンドの神部年男が6球続けて牽制。その直後、絶妙のタイミングでスタートを切った福本は、悠々と二塁ベースに滑り込んだ。
 待ちに待った世界タイ記録の偉業達成。前日までまるで鉛が入ったかのように重かった足が、捕手のミットをめがけて投げ込もうとする投手のモーションに鋭く反応した。神部の執拗な牽制が、持ち前の闘争心をよみがえらせたのだろう。モーリー・ウィルスが165試合目にマークしたのに対し、福本は112試合目。文字通りのスピード記録となった。
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 実は大記録達成の直前、福本は信じられないような行動に出た。四球で出塁した後、なんと一塁ベース上でスタンドに向かってVサイン。この盗塁予告にファンから歓声があがったが、予想もしなかったパフォーマンスにネット裏の関係者は唖然とした。
 「あのとき、球団の営業に言われてやむを得ずやったんや。相手をなめてやっていけるほど、この世界は甘くないんや。たまたま相手の捕手は親しい岩木やったけど、ほんまに失礼なことをしたわ」。
いまでも世界タイ記録の偉業達成の喜びより、その時の相手捕手への非礼をわびる気持ちの方が大きいという。常に人を思いやる人情家ぶりは、30年たったいまもかわっていなかった。
 その後も盗塁数を積み重ねた福本は700、800…と次々とやってくる記録の区切りで、またまた目にみえない敵に苦悩することになる。

(03.1.28) 産経新聞SPORTS EXPRESS/ あの瞬間  西井禎一