塁間を駆け抜けた男 【2】
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恩人・野村の前で700盗塁 世界意識「次は1000個」

 1972年(昭和47)、福本豊はモーリー・ウィルス(元ドジャース)が持っていた米大リーグシーズン記録を塗り替える106盗塁を決めた。その後もまるで自分だけに与えられたフリーウエーのように塁間を駆け抜け、盗塁を積み重ねていった。パ・リーグのバッテリーの間では「ストップ・ザ・福本」が合い言葉になったが、そのひとつひとつの盗塁に心のひだを揺らした。
 日本球界初の通算700盗塁まで「あと1」と迫っていた79年4月10日、阪急ブレーブスは本拠地・西宮球場で西武戦を迎えた。
 しかし、前人未踏の記録達成を前にした福本は苦笑しながら、「きょうは走ってもあかんやろ。(新聞の)見出しにもならんわ」と首を振った。その日は西宮球場からわずか4キロしか離れていない甲子園球場で伝統の一戦、阪神−巨人戦があったからだ。いくら記録を作っても人気のないパ・リーグでは注目されない_自虐的な気持ちがそう言わせたのだろう。
 試合前のベンチで福本が報道陣に取り囲まれていたちょうどそのころ、球場内の選手食堂に西武移籍2年目の大ベテラン捕手、野村克也が姿をみせた。気心の知れた長池徳士をみつけるなり、「きょうは長池のツケや。まあ。お前の給料やったらうどんやな」。すかさず長池は「何でもうまいもんを食ってください。今年限りで終わりの人ですからね」と笑顔で応酬した。
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 現役最年長選手となった野村はすでに43歳。かつての日本一の名捕手も体力、肩の衰えは隠しようがなかったが、その日の試合は先発マスクを任された。普段にも増して厳しいコースを攻める野村のリードをかいくぐって福本は二回の第2打席、左前安打で出塁。そして2番打者簑田浩二の2球目、絶妙のタイミングでスタートを切り、鮮やかに二盗を決めた。記録達成を告げるアナウンスが球場内に流れると同時に、一塁側2階スタンドに用意されていた2個のクス玉が割れた。
 出塁するたびに次々と記録を塗り替える「盗塁の開拓者」に対し、相手は周囲で現役引退がささやかれているロートル捕手。考えてみれば。勝負をする前から結果はわかっていた。スタートさえ切れば、間違いなく成功する_。しかし、福本を走らせたのは決して野村の弱肩ではなかった。
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 初の盗塁王タイトルを獲得したプロ2年目の70年から、持ち前の俊足で存在をアピールする‘足攻スペシャリスト’を野村は「個性に生きるプロらしい男が現れた」と、ことあるごとに絶賛した。当時、まだ厳しいプロの世界でやっていける自信がなかった福本は「あの野村さんの言葉が大きな励みになった」と打ち明ける。
 「長島はひまわりで、おれは月見草や」。自らを日陰に咲く『月見草』にたとえながら、地味なパ・リーグを牽引した野村は、同じリーグに身を置く選手にとっては「プロの鑑」。しかも、厳しいプロの世界でやっていける自信をつけてくれた恩人でもある。その球界の大先輩の前で700盗塁達成。
 「記録そのものはあっさり作れたけど、尊敬する野村さんの前で達成できたことが何よりもうれしい」。記者会見で感無量の表情をみせた福本にとって、一生忘れることができない盗塁のひとつとなった。
 試合後、野村は「おれもついとらんな」と、ぼそりとつぶやきながら西宮球場を後にした。自らが認めた「プロらしい男」の偉業達成を祝福しているかのように、その顔は笑っていた。その年のシーズン終了後、南海、ロッテ、そして西武と渡り歩いた26年間の‘生涯一捕手人生’を終えた。
 もちろん、これまで日本人選手が足を踏み入れることができなかった未知の世界に挑戦する福本にとって、700盗塁は単なる通過点に過ぎなかった。「プロなんやから目標は大きく持たんとあかん。次は1000個やね」。このとき、はじめてルーブロック(元カージナルス)の持つ938個の大リーグ通算盗塁記録を意識しているせりふを口にした。

(03.2.4) 産経新聞SPORTS EXPRESS/ あの瞬間  西井禎一