塁間を駆け抜けた男 【5】
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牽制球に燃えた反発心 「世界の盗塁王」が誕生

 プロ入り2年目の1970年(昭和45年)から82年まで、福本豊は13年連続でパ・リーグ盗塁王の指定席に座り続けた。おそらくこんな選手は、もう二度と現れないだろう。その黄金の足に1億円の保険金がかけられ話題になったこともあったが、ついに「世界の盗塁王」になるときがやってきた。
 83年6月3日、西武球場での西武ライオンズ戦。一回、いきなり二盗を決め、ルー・ブロック(元カージナルス)の持っていた通算938盗塁の世界記録に並んだ。しかし、首位を走る西武打線の猛打を浴びた阪急ブレーブスは。7−11と4点リードされて九回を迎えた。この回の先頭打者、福本は四球で出塁したあと、2番弓岡敬二郎の内野ゴロで二進。「点差を考えたらここで三塁に走っても意味がないな」。世界新記録挑戦への気持ちの高ぶりは一気に萎えた。
 ところが、ここで二塁手の山崎裕之が執拗にベースカバー。「走る気はないけど今後けん制したらほんまに走るぞ」。口を尖らせながら二塁ベースに戻る福本の表情の変化を読みとれなかった山崎は、またしても動いた。そのあとカウント1−2からの森繁和の4球目、まるでバネに弾き出されたように猛烈な勢いでスタート。捕手の大石友好からの送球が届いたとき、すでに三塁ベースで立ち上がろうとしていた。
 ついに世界を超えた_。日米プロ野球人の誰もが経験したことのない領域に足を踏み入れるメモリアル記録達成へのスタートを切らせたのが反発心だったというあたりが、いかにも職人・福本らしい。
 プロ入り15年、1731試合目で偉大な金字塔を打ち立てた‘世界の韋駄天男’に、これまでの記録ホルダーだったブロックは海の向こうから「米国以外の国で盗塁の妙技とベネフィット(価値)を理解してくれる人がいるということは、大変によろこばしいことです。あなたは確実にその神髄を会得した人です」という最大級の賛辞コメントを贈った。
 さらに翌年の84年8月7日の大阪球場での南海ホークス戦で、ついに1000盗塁の超大台に到達。世間はロサンゼルス五輪に沸いていたが、この快挙に「世界に誇れる日本球界の金メダリスト」の見出しが紙面に躍った。
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 当時、プロ野球のスター選手のほとんどは豪邸を構え、ベンツなどの超高級車を乗り回していた。そんな一流プレーヤーのステータスを「お城みたいな家に住んだからといって偉いとは思わんし、外車に乗ったから立派とも思わん。人間、食べていけたらええんと違うか」と頑なに拒否。3LDKマンションに住み、国産車を愛用し続けた。私生活を飾ることを極端に嫌ったそんな男が、自らの足でついに野球の本場メジャーも認める輝かしいステータスを手にした。
 しかし、忍び寄ってきている足の衰えを本人は感じ取っていた。その後年々、盗塁数が激減。わずか3盗塁しかきめられなかった88年のオフ、1065個の勲章を手に自らの盗塁人生にピリオドを打った。
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 福本の偉大な大記録はリッキー・ヘンダーソン(元アスレチックス)の足によって破られた。93年6月16日、オークランドで行われたホワイトソックス戦で通算1066盗塁を記録。ヘンダーソンはその瞬間をスタンドで見届けた福本に試合後、新記録を達成した際の二塁ベースをプレゼント。そのニュースは全米に流された。
 すでに82年にスパイクが米国の殿堂入りを果たしていたが、メジャー関係者だけでなく、本場のマスコミはじめ、ファンにも改めて「世界のフクモト」が認知された。
 「こんな記録を残せたのも、お世話になった高校、ノンプロ、阪急のチームメート、監督のおかげですわ」。いまでもこれまでかかわってきた人に対する感謝の気持ちを持ち続けている。しかし大鉄高(現阪南大高)、社会人の松下電器、さらにプロ入りしたときの福本のことを知る関係者はだれ一人、将来、世界の頂点に立つ選手になることを予想できなかった。

(03.3.4) 産経新聞SPORTS EXPRESS/ あの瞬間  西井禎一