【10】 球界12年 言わせてもらいます
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オリックス前代表 井箟重慶さん
聞き手 村上敏彦記者

仰木監督 −球団のイメージをアップ

 村上: 平成八年、球団初の日本一になるなどオリックス黄金時代の監督は近鉄で優勝の実績を残していた仰木彬さんでした。

 井箟: 仰木監督への期待はチームを育てることではなく(試合に)勝つことでした。前任の土井正三監督に引き続いて基礎作りを託す監督候補なら大矢明彦氏ら何人かいましたが、ある程度の戦力ができていたので(宮内)オーナーの意向にも沿って勝負できる監督を招くことになった。候補は広岡達朗、野村克也、森祗昌監督らの各氏もいて、その中から近鉄で手腕を発揮していた仰木さんに決まったんです。

 村上: その仰木監督は平成七年、阪神大震災が起きた年にチームをリーグ優勝に導き、就任二年目で球団が望んでいた結果を出しましたね。

 井箟: 信頼していた宮内オーナーも二年目に優勝できるとは思っていなかったようですが、仰木監督は想像通り、コマ(選手)使いのうまい人でした。監督になる前にコーチ時代が二十年と長く、六人の監督(中西太、三原脩、岩本堯、西本幸雄、関口清治、岡本伊三美)に仕え、長所を吸収して自分のモノにしていた。データを重視しながら、選手の特徴をつかみ、マイナス面には目をつぶり、プラス面を引き出すさい配も巧みでしたね。

 村上: 「魔術師」と称された仰木監督は、就任一年目には横浜から移籍した平塚克洋外野手を実績不足でも四番打者で起用するなどの大胆さもありました。

 井箟: 当時の打線は日替わり打線と呼ばれ、オーダーを固定できなかった。主力打者の奮起を促す意味も含まれていたんでしょうが、それまで一軍に定着したことがなかった平塚がなかなかの結果を出しましたからね。三原脩監督は「調子の良い者はどんどん使え」という考え方だったと聞いているし、恩師の人使い戦略をチームの状況に合わせて生かし、勝利に結びつけたということではないですか。

 村上: 仰木監督は井箟さんと同じ昭和十年生まれ。年齢を感じさせない若さも売り物でした。

 井箟: 仰木監督は酒が強く、私は一滴も飲めない。これだけでも大きな違いですが、気分の持ち方でも若さの違いを感じましたね。選手時代からこせこせしない豪放磊落(らいらく)な性格だし、現役引退後も仕事の野球を通じて常に若い選手と触れ合いがあるのが、若さの秘けつでしょう。艶っぽい話もありましたが、これも公私両面で活力の源ということじゃないですか。

 村上: 仰木監督は「広報部長」とも呼ばれ、チームのPR、話題作りにも積極的でしたね。

 井箟: (人気拡大が課題の)パ・リーグで育った人らしく、チームのイメージアップにも気をつかってもらいました。キャンプ中は夜、担当記者らマスコミ関係者と積極的に懇談の場を持ち、球団全体を活気づける話題を提供してくれました。宮古島キャンプを訪れた中年女性グループから声をかけられると、快く一緒に写真に収まるなどサービス精神も旺盛。「オレはストライクゾーンが広いんだ。六十歳まで受け持つ」などと軽口をたたいて笑わせていたもんでした。


(03.9.4) 産経新聞