野球【】 校庭と球場は地続きだった
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都心に現れた“巨大な墓標”

 見慣れた光景が失われようとしていた。平成十年十一月、大阪難波の大阪球場。プロ野球「南海ホークス」(現ダイエー)の本拠地として、戦後間もない昭和二十五年からミナミのど真ん中で数々の名勝負を生んだ野球の殿堂は、ついに取り壊しの時を迎えた。
 当時、南海電車の沿線に住む女性会社員(35)は不思議な体験をした。通勤や通学の途中、車内からいつも見えていた大阪球場。解体工事が進み、日に日に内部の様子がむきだしになるにつれ、乗客は、その哀れな姿にくぎ付けになった。やがて、ため息は、すすり泣きに代わり、女性も目頭を押さえずにはいられなくなった。気が付くと、周囲の乗客のほとんどが大粒の涙を流していた。
 「そこに球場のある光景が当たり前だと思っていた。野球にも南海にもそれほど思い入れがあったわけではないのに、涙がとまらなかった。子供のころ父親と野球を見にきた記憶やいろんな思い出がよみがえってきて、たまらなくなった」。女性はそう振り返る。
 当時、南海ホークスが大阪を離れてすでに十年がたっていた。大阪球場は、野球場としての機能すら果たしておらず、解体を待つだけの無惨な姿をさらしていた。にもかかわらず、乗客らは大阪から一つの精神的支柱のようなものが奪われる喪失感を敏感に感じ取っていたのかもしれない。
 現在も南海ファンを続ける関西大学教授の永井良和(44)は言う。「かつて、この街には野球という文化が当たり前のようにあった。当たり前すぎて、失うまでその大切さに気づかなかった。そのツケはボディーブローのように効き、今回の
プロ野球危機で一挙に噴出した」

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 新球団の創設に沸く仙台、日本ハムファイターズの移転で野球ファンが拡大した札幌。サッカーJリーグチームの活躍で活性化を図る地方都市など、今や自治体にとってプロスポーツチームの誘致は欠かせないソフトになった。
 一方、今季限りで近鉄バファローズが姿を消す大阪は、地元の球団がなくなるにもかかわらず、その危機感はあまりに薄かった。オリックスとの合併反対署名は百二十万を超えたものの、大阪ドームの観客動員数は結局増えなかった。
かつて近鉄の本拠地だった藤井寺球場すら閉鎖の動きが早くも進んでいる。
 「あの時も同じだった。署名も集めた。球団にも抗議した。それでも何も変わらなかった」。熱烈な南海ファンとして知られる大阪在住の漫画家、中島宏幸(48)は、南海球団がダイエーに身売りされた昭和六十三年当時を振り返り、こう話した。
 「あの経験で大阪人は、球団が消えることに慣れっこになってしまった。親会社が、ファンの気持ちなど考えていないことがはっきりしたことで、妙に大人になってしまったのかもしれない」

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 南海球団の移転とともに「主」を失った大阪球場は、関西国際空港の開港に伴う難波一帯の再開発で、当初は翌年にも取り壊される予定だった。ところが、バブル経済の崩壊などで計画はなかなか進まず、球場はかつての勇姿をそのまま残しつつ、内部を住宅展示場に変えた。
 スコアボードも、スタンドも、ナイターもある。名将・鶴岡一人(故人)率いる「百万ドルの内野陣」「四百フィート打線」と
呼ばれた名選手らが陣取ったベンチにも座れる。にもかかわらず、野球を見ることも、することもできない。ファンにとってこれほど残酷な場所はなかった。その異様な景観は世界的にも注目され、オランダで発行された建築雑誌の表紙にもなったという。
 「あの光景を面白がる風潮も大阪にはあった。大事な思い出を土足で踏みにじられる思いだった。プロ野球を見なくなったのも、あのころからだと思う」。小学生の頃から大阪球場に通っていたという大阪市内の会社員(50)はそう話す。
 ただ、住宅展示場や併設されたミュージカルテントによる収益は年間二百億円近くに上り、球団の末期を大きく上回っていたことも確かだった。その後、球場跡地は、ブティックや飲食店などが入る商業施設「なんばパークス」に生まれ変わった。そこには、かつての南海をしのぶメモリアルコーナーが、わずかながら残された。
 永井は言う。「今にして思えば、大阪球場は即座に解体されなくてよかったとも思う。あの十年は、ファンにとっては
南海との思い出をかみしめるための『看取り』の時間だったのではないか。同時に、都会の真ん中でたなざらしにされた球場は、大阪の野球文化の終焉を象徴する巨大な墓標でもあった」。
 かつて大阪に南海ホークスという球団があった。当時は阪神タイガース一辺倒の街ではなかった。一つの球団が消えるとはどういうことなのか。

=敬称略
(皆川豪志)  04.10.13 産経新聞