野球【】 校庭と球場は地続きだった
                                                                  >>Next

「だって南海ファンやもん…」

 その日、大阪は秋晴れだった。昭和三十四年十月三十一日、四年ぶりにペナントレースを制した南海ホークスは、
二リーグ制移行以来、初の日本一に輝き、大阪に凱旋した。球史に残る「御堂筋パレード」である。
 十一台のオープンカーの先頭には監督の鶴岡一人(故人)、二号車には優勝の立役者でもあった杉浦忠(同)、
野村克也のバッテリーが乗り込んだ。沿道を埋めたファンは二十万人。昨年の阪神タイガースのパレードが四十万人。時代背景を考えると決して少ない数字ではない。当時、南海は紛れもなく大阪を代表する人気チームだった。
 そして多くのファンが溜飲を下げたのは、日本シリーズの相手が宿敵・読売巨人軍だったことである。しかも杉浦一人で四連投四タテを食らわせたのだ。
 「僕らの世代は南海の黄金時代を直接見ていない。それでも球団とファンが生み出してきた長い長いドラマは知っている。だからこそ、九州で別のチームに生まれ変わったダイエーのファンには決してなれなかった」。小学校の時から現在も南海ファンを続ける大阪在住の漫画家中島宏幸(48)はそう話す。
 六十三年、ダイエーに身売りされたホークス。今季限りで合併するバファローズ。仮にチームの名前が残っても、ファンのこだわりはその背後の歴史や物語にこそある。Jリーグの横浜マリノス、フリューゲルスが合併して「横浜F・マリノス」になっても観客動員数が二倍に増えたわけではなかった。南海からダイエーに移ったファンもほとんどいなかった

********************************************************************************************
 「(パレードで)頭に浮かんだのは、赤穂浪士が討ち入り後に凱旋するシーンでした。憎き巨人を苦心の末にやっつけた四十七士がわれわれ南海ナインなのです」。杉浦は、後にその著書「僕の愛した野球」でこう述べている。
 日本シリーズ前年の三十三年、立教大から南海入りした杉浦は、大学の同期にスーパースター、長嶋茂雄がいた。
当初二人は、南海入団を確約されていたとされるが、長嶋は土壇場で巨人入りしてしまった。二十四年には南海のエース、別所毅彦(故人)を巨人に引き抜かれたという経緯もあった。
 両球団の直接対決は「アンチ東京」「アンチ巨人」の思い入れが強い大阪人にとって因縁の戦いでもあったのだ。
杉浦は、シリーズで計32イニング、四百三十六球を投げぬき、右手中指のマメはつぶれ、ボールは血に染まった。それでも長嶋には一本の長打も許さなかった。
 「なぜ人気のある阪神じゃなくて南海のファンなのか。近鉄も同じだと思うが、球団末期の南海ファンはそんな質問ばかりされた。でも、マイナーなチームだからこそ、ファンはその動機づけを求め続けた。物語にこだわったのです」。
関西大学社会学部教授の永井良和(44)はそう話す。
 御堂筋パレードで頂点を迎えた南海の黄金期。だが、日本シリーズで巨人を破ったのはこの一回限りだった。四十八年以降はリーグ優勝すらなく、チームは低迷した。「再び巨人を倒して日本一に…」。閑古鳥の鳴く大阪球場のスタンドで、ファンが描いた物語最大のクライマックスは結局、訪れなかった。

********************************************************************************************
 「屈折していると思われても南海が好きだった」。中島や永井はそう話す。二人は。阪神が優勝した六十年も甲子園の騒動を横目に、大阪球場に通い続けた。巨人戦をドル箱としているセ・リーグと違い、南海はペナントレースを勝ち抜かない限り“永遠のライバル”と対戦すらできない。そんなパ・リーグの悲哀も物語に拍車をかけた。
 大阪のブルースバンド「アンタッチャブル」が六十一年に出した「南海ファンやもん」という曲は、そうした晩年の南海ファンの心情を表していた。
 『昔の話が酒のあてになる頃 そん時だけに 目の輝きが戻る あん時ゃ強かったねと言いたいばかりに 今日もミナミの飲み屋へ… だって俺 だって俺 南海ファンやもん…』
 作詞(共作)、作曲、ボーカルの野本有流(47)によれば、この歌は当時、野本がDJを務めていた民放の深夜ラジオ番組から生まれた。当初、さびのフレーズは「だって」ではなく、より自虐的な「どうせ」だったというが、ファンの反応は予想以上に大きかった。
 「とても僕のリスナーとは思えない年輩の世代から、すがりつくような内容の手紙をもらったこともあった。おいおい、
南海ファンって、こんなにいたのかよ。じゃあもっとみんなで盛り上げていこうやないか。身売りが決まったのは、そんな話題で盛り上がっていた矢先だった」
 栄光の歴史を刻みつつも、万年Bクラスからついにはい上がれなかった南海ホークス。そこには、球場で繰り広げられたファンと選手の物語もあった。

=敬称略
(皆川豪志)  04.10.14 産経新聞