【2】 小さな剛球投手 〜記録と記憶に生きて
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元阪急ブレーブス投手 山口高志さん
聞き手 村上敏彦記者

「マウンドでは役者たれ」

 村上: 山口さんは中学(神戸・高取台)時代から速球投手で知られていたそうですが、市立神港高へ進んだいきさつは。

 山口: 中学から歩いて五、六分のところに育英があり、何度か練習をのぞきに行ったことがある。三つ年上の鈴木啓示さん(元近鉄)がいた時代ですが、監督が怖いほど厳しく見えた。それで子供のころからファンだった滝川に(入学)願書を出す準備をしていたら、高取台中学の卒業生で市立神港のOBに熱心に勧められ、決断したんです。

 村上: 入学した市立神港高の野球部は練習が厳しくなかったんですか。

 山口: 監督は二年のときから高木太三郎さん(元関大監督)だったが、自分は一度も殴られた覚えがないんです。練習終了後、選手が集合をかけられ、みんなが気合を入れられているときも、自分は毎日、一人だけグラウンドを走らされていたんです。走るのは好きではなかったが、監督には、投手はピッチングの土台となる足腰を鍛えるため、特にランニングが必要なことをやかましく言われていました。

 村上: 特訓を受けたということは、それだけ目をかけられていたんでしょう。

 山口: 一年の秋までサードをやり、エースに予定されていた選手のケガで投手に戻ったんですが、足腰の特訓はグラウンドだけではなかったですね。チーム全員が須磨海岸の砂浜で砂袋を腰に巻いて走らされたときは、自分だけ袋を二つ巻かれました。投手は負荷をより多くかけた方がいいという監督の考え方だったが、こんな厳しさが自分の投手人生の原点になったと思います。

 村上: 三年生の春、夏連続で出場した甲子園では春は二回戦、夏は初戦で敗退していますが、高校時代から記録男だった。

 山口: 二年のとき、春の兵庫県大会で二試合連続ノーヒット・ノーランを達成したことがあるんです。一、二回戦で相手は東洋大姫路と育英。一回戦では八回の守りでショートがゴロの打球をはじいて、ヒットと思ったらスコアボードに
「エラー」の表示が出た。記録がかかった試合は初めての体験。試合後、記者の取材に「エラーでホッとした」と答えたのを覚えています。

 村上: 記録達成のピンチを切り抜け、無意識に安どの本音が出たんですかね。

 山口: 記録の意識はそれほどなかったつもりだが、翌日、新聞を見た兄に「バックのエラーが続いたら、カッカして悔しがるのか」と詰問されましてね。四つ年上の兄は須磨高校で野球部に在籍したことがあるんですが、投手は常に冷静でなければいけないと。確かに、チームワークを乱す恐れもあった。悪いことを言ってしまったと反省させられました。

 村上: お兄さんの助言は、その後の野球人生にも役立ったのでは。

 山口: 「マウンドのピッチャーは役者たれ」につながる教えだと気がつきました。どんな状況でも、敵に弱みを見せてはいけない。動揺を読みとられないためには、心の内を表面に出さないポーカーフェースが必要。マウンドという舞台で演技ができる役者精神は、自分の投手生活の信条になりましたね。

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市立神港高校時代の山口さん(右)。投手のほか打線でもクリーンアップを打つ強打者だった  ※(写真略)


(04.2.3) 産経新聞