【3】 小さな剛球投手 〜記録と記憶に生きて
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元阪急ブレーブス投手 山口高志さん
聞き手 村上敏彦記者

村山投手と同じ背番号「11」

 村上: 昭和四十四年、市立神港高から進学した大学は関大でしたが、最初は関西の大学志望ではなかったとか。

 山口: 本当は東京六大学に行きたかったんです。チームに入って野球を始めたのは小学五年でしたが、子供の時から東京六大学の試合をテレビで見ていて、エンジ色の早稲田のユニホームにあこがれていましたからね。法政からは
受験の話もあったみたいだが、東京六大学は周囲の反対であきらめたんです。

 村上: 反対された理由は何だったんですか。

 山口: 体が小さかったことです。競争が激しい東京六大学では目立たず、無理をすれば潰れる危険性があるという
忠告でした。メンバー表の身長は百七十センチになっていたが、実際には百六十九センチしかなかった。自分は他人の意見を聞くタイプなので、当時の高木(太三郎)監督、野球部長らの説得に渋々納得したかたちでした。進学先が関大になったのは、高木監督が関大OBということもあったと思います。

 村上: 大学での背番号は「11」。昭和三十一年、エースで関大に初の大学日本一をもたらせた村山実投手
(元阪神=故人)と同じ番号でした。

 山口: 入学したばかりの高知での合宿で達磨(省一)監督から与えられました。村山さんが関大から阪神に入ったとき(昭和三十四年)に自分は八歳だった。隣りの野球好きのオジさんに連れられ、近くの喫茶店のテレビでダイナミックな投球をみてあこがれたもんでした。達磨監督は関大野球部で村山さんと同級生。「村山のように…」の思いが込められていたんでしょうが、すごい番号だからうれしかったですね。

 村上: 同じ速球派だった村山投手と比べて身長が六センチ低かったが、上背がないハンディの克服策としては、どんなことを。

 山口: 中学で投手をしていたときから「背の高いヤツに負けてたまるか!」と自分に言い聞かせていた。高校時代の高木監督には「上からたたきつけるように投げろ」と教えられたが、そのように右腕を精いっぱい振り上げ、頭の真上から投げ下ろせば角度がつく。しかも生きた伸びる球を投げられる。これさえできれば、大きな者にもヒケを取らないと信じていました。

 村上: 打倒東京六大学に燃え、二年生から完全なエースになりましたが、ライバル視した選手は。

 山口: 負けたくないと思った投手は、平安高校から法政へ進んだ池田信夫(現拓大一高監督)です。三年のとき、
一緒に甲子園に出場して。池田は春にはベスト8まで進み、自分より名前が売れていた(高校時代、ロッテのドラフト三位指名を拒否)。しかも自分が断念した東京六大学に進んだんだから、よけい意識が強まりましたね。

 村上: その池田には二年生のとき、全日本大学選手権で投げ勝ちました。

 山口: 準決勝で法政と当たり、延長二十回、2対2からサヨナラ勝ちでした。法政は横山晴久(元東映)と池田の継投(横山7回、池田12回1/3)だったが、関大は自分が一人で投げ抜きました。球数は300を超えていたと思う(306)。
途中から池田との勝負になったので、なおさら死に物狂いだったのを覚えていますよ。

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関大時代の山口さん。背番号11を背負い、マウンドを守った  ※(写真略)


(04.2.4) 産経新聞