【4】 小さな剛球投手 〜記録と記憶に生きて
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元阪急ブレーブス投手 山口高志さん
聞き手 村上敏彦記者

特訓、特訓「やれば負けない」

 村上: 関大が十六年ぶり二度目の大学野球日本一を達成したのは昭和四十七年。エースだった山口さんが四年生のときですね。

 山口: 自分にとっては二年の時以来二度目で最後の全日本選手権だから、勝ちたい気持ちは強かったが、あまり
プレッシャーはなかったですね。大会は本郷(東京・文京区)の旅館に泊まっていて、夜は毎日のように達磨(省一)監督が四年生だけ食堂に集合をかけ、一緒に酒を飲んでワイワイやってました。みんながリラックスして試合に臨めたのは監督が緊張をやわらげるようにしてくれたせいかもしれません。

 村上: 決勝は慶大に1−0で完封勝ち。試合を取材していた私は、達磨監督が「高志が(関大を)日本一にしてくれた」と感激していたのを覚えています。

 山口: 打てないと言われた打線も頑張って盛り立ててくれました。しんどい特訓に耐えたかいがありました。三、四年のシーズンオフの冬にはそれまでなかった陸上選手並みの厳しい練習をさせられましたからね。いま振り返ると、あの厳しさは達磨監督の日本一にかける執念だったと思います。

 村上: どんな特訓だったんですか。

 山口: 関大陸上部の指導者(陸上部OB)に教えを受け、競技用トラックでのトレーニングです。選手みんなが三勤一休で初日四時間、二日目三時間、三日目一時間と練習時間にメリハリをつけ、一定の休息間隔で走りっぱなし。走るのは好きではなかったし、朝起きてきつい練習が待っていることを思うと、寝るのがイヤになる日があったほどでした。

 村上: 大学四年間で通算四十六勝、六十八回連続無失点などのリーグ新記録をつくり、あと二勝で通算四十八勝の大学記録(法大・山中正竹)に届くところでした。

 山口: 最後の秋リーグ戦で四十六勝目を挙げ、チームは二試合を残していた。数字的には届く可能性があったが、
もう投げないでいいと思い、それを監督に伝えました。大学では優勝が最優先だから、記録へのこだわりはなかったし、日本一になって達成感みたいなものもありましたからね。

 村上: あこがれていた関大の先輩・村山実氏(元阪神=故人)と同じ背番号「11」でがんばったわけですが、その間に二人の接触は。

 山口: 野球部OBの会合で顔を会わせるぐらいでした。四年のとき、六月の大学選手権で優勝した後、野球部の仲間と達磨監督の自宅に遊びに行ったんです。監督は芦屋の村山さん所有のマンションに住んでいて、その向かい側が
村山さんの自宅。監督から「いま村山がいるから会って来い」と勧められ、三、四人があいさつに行ったが、自分は恐れ多くて行きませんでした。

 村上: 大学選手権の後、関西六大学(現関西学生)は春に続いて秋も制覇し、神宮大会でも優勝。さらに日米大学野球でも優勝の立役者。すべて大車輪の活躍でした。

 山口: 出場した大会は全部優勝して、あの年は「やれば負けない」という試合の連続でした。チーム内に仲の良い連中も多かった。野球が楽しかったという意味では社会人、プロ時代も含めて、あのころが自分の野球人生の中で絶頂だったような気がしますね。

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昭和47年の日米大学野球で最優秀選手に選ばれ、帽子を振って歓声にこたえる山口さん  ※(写真略)


(04.2.5) 産経新聞