【5】 小さな剛球投手 〜記録と記憶に生きて
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元阪急ブレーブス投手 山口高志さん
聞き手 村上敏彦記者

プロ入り“拒否”の真相は…

 村上: 関大卒業時にプロから熱いラブコールを受けながら、社会人(松下電器)入りの道を選びましたね。

 山口: マスコミには「プロ入りを拒否」と伝えられましたが、自分の場合は拒否したのではなく断念したんです。プロが嫌いだったわけではなく、職業として選べるかどうかが一番の問題でした。体が小さく、体力的な面で選手として長い間やれる保証がなかったですからね。

 村上: 地道な社会人へ進んだわけですが二年間の成績は、華々しかった大学時代に比べると、もうひとつでした。

 山口: 在籍した二年間、松下電器は都市対抗など社会人の全国大会には一度も出られなかったが、自分の考え方が甘かった。野球を楽しみたい気持ちがあったし、大学時代、がんばって結果を出していたので、ちょっと一服したい思いもあった。野球に対する姿勢そのものに欠けたものがあったんですね。

 村上: 社会人二年目の夏、取材で松下球場を訪れ、エースの山口投手が精神的に苦しんでいたのを覚えています。

 山口: 都市対抗の大阪予選で負けたあとだったと思います。自分が意識過剰だったのかも知れないが、社内での居心地の悪さを感じていたのは確か。会社で周囲の人には大変よくしてもらっていたんですが、それだけに野球で結果が出ないと、なんとなくギクシャクした雰囲気になってしまう。会社側の期待が大きく、こちらの取り組み方とズレがあったんですね。自分の求めていた野球とは違っていたということです。

 村上: そのあと新日鉄堺の補強選手で出場した都市対抗では、三十三回無失点で小野賞(敢闘賞)を受けていますね。

 山口: 松下電器の一員としては陽の目を見ることができなかったが、チームに縛られなかったら、自分の力を発揮できたという形でした。(エースとして)求められる結果が出せず、心の中に葛藤(かっとう)が生まれていたような気がします。そのジレンマと、勝たなければいけない義務感みたいなものから解放され、本来の自分を取り戻せたんだと思います。

 村上: その年(昭和四十九年)のドラフト一位指名で阪急に入団しましたが、プロ入りの思いはいつごろから。

 山口: 本音を言えば、松下電器で二年目を迎えた時点です。チャンスがあれば、プロでやりたいという気になっていました。会社では野球中心の生活だから、社員でもちゃんとした仕事はしていなかった。野球をやめて仕事に戻っても、何もかも中途半端というのが心配になってきたんです。その点、プロは給料の上がり、下がりが自分個人の成績次第だし、よけいな気をつかわずに割り切ってやれますからね。

 村上: 出来ることなら、大ファンだった阪神に入りたかったでしょう。

 山口: (一位)指名の順番がくじ引き(予備抽選)だから、自分の思い通りにはならない。あの年はプロに行くハラを固めていたので、どの球団かということには、それほどこだわりはありませんでした。あこがれていた村山(実)さんは、名前を聞いただけでピッチングが頭に浮かぶ。自分もそんな真っ向から勝負する投手になりたいと思いました。

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プロ入りには悩んだという山口さん。社会人を経験してようやく決断した  ※(写真略)


(04.2.6) 産経新聞