【6】 小さな剛球投手 〜記録と記憶に生きて
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元阪急ブレーブス投手 山口高志さん
聞き手 村上敏彦記者

優勝に貢献、新人王の快挙

 村上: 山口さんは昭和五十年、破格の条件(契約金五千万円、年俸六百万円)で阪急入り。背番号「14」をつけて
新人王に輝きました。

 山口: 入団当時、数字の小さい番号では14以外は1、19、20が空いていました。(あこがれていた村山実氏と同じ番号で関大時代の11は戸田善紀投手がつけていた)。その中で高校(市立神港高)の先輩にあたる宮本幸信(中大出)さんが阪急でつけていた番号に決めたんです。宮本さんがトレードで広島に移り、入れ替わりで自分が引き継いだ形でした。

 村上: 山口さんにとって、宮本先輩はどんな存在だったんですか。

 山口: 五つ年上で市立神港を甲子園でベスト4に導いたエース。自分が関大四年のときに出会い「体が小さいことなんて、何でもないぞ」と激励されたことがあった。14番に決まった日に高校の同期会があり、その場で報告すると、野球部長らOBに「よかった」と喜んでもらえた。「宮本さんが咲かし切れなかった(七年間で三十二勝三十二敗三セーブ)花を自分が咲かそう」という思いもありましたね。

 村上: 注目されてプロの世界でスタートを切ったときの胸の内は。

 山口: 村山さんのような投手をめざし、新人王になりたいという気持ちはあったが正直なところ、自信と不安が入り混じった状態でした。(松下電器に)わがままを言ってプロ入りしたから、まず、四年か五年は精いっぱいがんばらなきゃいけないと思い、当面は「一軍で投げられたらいいなあ」というのが本音。先発とかリリーフとか、使われ方にこだわりはなかったですね。

 村上: プロでやれる自信をつかんだのはどのあたりからですか。

 山口: いまでも覚えているのが四月二十二日の大阪球場での南海戦。先発して打線に5点をもらい、1失点の完投で初勝利を手にした。これで少しはプロで生きていけるかな、という感覚がつかめた気がしました。それまでリリーフで何度か失敗して黒星が先行していたから、早めに白星がついたのは気持ちの面で大きかったですね。

 村上: 一年目に十二勝一セーブで阪急に三年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献しましたが、新人王は球団史上初の快挙でした。

 山口: 当時コーチだった梶本(隆夫)さんが現役時代、獲ってもおかしくない成績で強力なライバルがいて獲れなかったのを聞いていました(昭和二十九年、阪急で二十勝十二敗の梶本は南海で二十六勝九敗の宅和本司に新人王を譲った)。その意味でも意義のあるタイトルでした。いまは新人王の資格が最高三年目までだが、あのころは一年目だけだったので、よけいうれしかった。

 村上: オフの契約更改では、年俸が七百万円になったんですね。

 山口: 百万円のアップでした。当時の貨幣価値からすれば、かなりの額だったが、いまのように一気に倍になるなんて、夢のまた夢の時代でした。一千万円が一流選手として、ひとつの目標になっていて、阪急の先輩では一千万、二千万円までいくのに何年もかかっていた。その点、いまの選手は大幅昇給が常識で恵まれていますよ。

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阪急への入団会見で背番号14のユニフォームとともに。上田監督(右)も関大の先輩だった  ※(写真略)


(04.2.7) 産経新聞